私たちの宝である海を未来へつなぐため、さまざまなゲストをお招きして、海の魅力、海の可能性、海の問題についてお話を伺っていく「Know The Sea」。Podcastなどを介してお届けしているこのコンテンツは、日本財団「海と日本プロジェクト」の一環です。
今回は、豊かな海を育むために森に植樹を続けるNPO法人「森は海の恋人」代表の畠山信さんに、先代から受け継いだ壮大な活動について伺いました。

「なんで漁師が山に?」:活動の始まり
「森は海の恋人」は、信さんの父で牡蠣漁師であった畠山重篤さんの呼びかけにより、1989年に活動をスタートしました。
当時の気仙沼湾は、1970年代から水質悪化が著しく、牡蠣の餌となるプランクトンが異常増殖する赤潮が頻繁に発生。赤潮を吸い込んだ牡蠣の実が赤く染まり、養殖業の存続が危ぶまれる時代背景がありました。
同時に、気仙沼湾に流れ込む川の中流部でダム建設の問題が持ち上がっていたこともあり、重篤さんは「豊かな海は森が育む」という信念のもと、川の上流(岩手県側)の森に植樹を始めました。
「宮城県の漁師が岩手県の山に木を植える」という話は、当初は行政にも理解されず、変人扱いされたと言います。しかし、重篤さんは信念を曲げず活動を継続。その思いが共感を呼び、特に小学校の教科書に掲載されたことで、活動は全国的な広がりを見せました。

36年間の継続がもたらした「人づくり」の成果
活動開始から36年が経過し、当時植えた小さな苗木は立派な森へと成長しています。そこには様々な生物が生活し生態系が豊かに推移していますが、この森が川や海にどう影響を与えているかという明確な答えは、「30年そこそこではまだ出ていない」と信さんは言います。だからこそ、この活動は継続していくことが力になると強調します。
この植樹活動の最大の成果は、目に見える森の成長以上に「人づくり」にあると信さんは語ります。
「活動開始当時、小学校4~5年生で植樹に参加していた子どもたちが、30年以上経った今、社会の中枢となり、自分の子どもを連れて植樹に参加するケースが増えてきました。この世代間交流こそが、活動の大きな成果です。当時木を植えに行った子どもたちが、親になり『今度は自分の子どもを連れて行きます』というメッセージを多くいただきます」
さらに、植樹会場の地域は農家が多く、子どもたちが親に対し「海のために、減農薬に取り組んでほしい」と提案するなど、子から親への環境意識の提案が生まれるという、地域社会の変化ももたらされました。

防潮堤なき自然の回復地:西舞根の湿地
信さんの活動拠点である気仙沼の西舞根地区は、東日本大震災で15メートルの津波が襲ったエリアです。しかし、この地区は住民合意のもとで防潮堤を作らないことを決め、自然の回復に任せています。
津波と地盤沈降の影響で、海辺の耕作放棄地が塩性湿地へと生まれ変わり、この湿地が多様な生態系を育んでいます。
アサリやニホンウナギといった食用生物、希少生物が増加し、もともといたメダカも湿地を中心に繁殖しています。この湿地は、地下水を通じて海に栄養塩を供給していることが大学との共同調査で見えてきており、豊かな漁場を支える重要な役割を果たしていることが分かってきました。 牡蠣漁師である信さんは、「自然の変化は人間の力で変えることはできないので、いつ何があって変化していったのかを次の世代に記録として残すべきだ」と、漁師としての視点から自然を見つめ続けることの重要性を語ります。
受け継がれる夢:「ミシシッピ川の旅」の完結へ
重篤さんの意思を継いだ信さんは、今後の活動について、父がやり残したことの完結を誓います。
その一つが、重篤さんが晩年に旅をし、原稿を書き残していたアメリカのミシシッピ川流域の旅です。重篤さんの残した手帳や原稿をもとに、「森は海の恋人的な視点からミシシッピ川流域を眺める」旅を完結させ、その記録を完成させたいと語ります。
また、NPOとしての活動では、「森・川・海」に加えて「地域経済」をつなげたいという目標があります。
「自然環境を保護すればするだけ、地域経済が潤う仕組みとして、ツーリズムに力を入れる考えです。これまでの教育旅行の受け入れに加え、純粋な旅人を受け入れ、自然を守る活動が経済的な潤いを生む仕組みを作ることで、地方の経済活性化を目指しています。」 信さんが守り育てる舞根の牡蠣は、海域ごとに味や風味が変わる牡蠣の中でも「舞根の味」として個性を放っています。この豊かな自然の恵みと、世代を超えて受け継がれる活動に今後も期待が寄せられます。


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